歴史を伝える巨大石碑群

西海忠士之碑

建立:明治25年(1892)
全高9米、棹石5米。文字は有栖川熾仁親王の大書。
「西海」は九州のことで、文久二年江戸への勅使が賜わった孝明天皇の詔勅中にある「山陽・南海・西海之忠志既ニ蜂起」の語が出所である。
明治二十二年、憲法発布に際してなされた「明治四年の藩難事件」の関係者に対する前罪消滅の大赦、翌二十三年教育勅語による国民道徳の大綱の提示が、建碑の背景にあった。
碑文は、政論の相違によって明治政府の征討を受けた藩難事件について触れ、関係者は尊王の忠志として罪を赦され名誉を回復したこと、また勤王に殉じた筑後の人々を同志として表彰し、 若い人への励ましとすることなどが記され、 代表的な人物として、真木和泉・水野正名・小河真文・古松簡二等の名が挙げられている。 

戊辰戦争従軍記念碑

建立:昭和10年(1935)
 戊辰戦役の開始は明治元年1月3日。久留米藩では2月20日藩主が挙兵上京し、堺・大阪・神戸付近の警衛を行い、次いで3月26日、関東への派兵の命を受けた。7月、奥州へ転戦し、翌2年1月、凱旋。
他方、9月に応変隊・山筒隊約500名は関東へ出兵。内半数は函館へ移動。こちらの藩兵は2年6月に帰国した。
本碑建立前の大正7年には戦病死者追悼五十年祭が行なわれ、記念事業として筑後史談会協力の下『久留米藩出兵記念編』が発行された。

小河真文先生碑

建立:大正3年(1914)
 寛永元年(1848)城内(篠山町)に藩士小河新吾の長男として出生。早くから勤王の志を持ち、時代の趨勢から幕府崩壊の兆候を読み取り、藩論をまとめ、改革のため 参政不破美作暗殺の義挙に出た。
その後藩政の中心として改革を進めるうち、その人望と名声は四方に聞こえるようになった。
明治4年、大楽源太郎が長州の奇兵隊を脱し久留米に逃れてきた。大楽源太郎は反政府運動を主導していた人物である。これを久留米の藩士が匿う事態が起き、政府の問罪使派遣に及んだ際、進んで解決に当たり、全責任を引き受け、藩主への疑いを晴らし、 身を挺して一藩を危急存亡の中から救った。
 明治4年12月3日処刑。享年25。処刑直前、不動の顔色をもって壮烈な弁論を述べ、司法官はひどく感動しこの優れた名士を殺すことを心から惜しみ涙をのんで判決を下したという。
 政府の軍派遣にまで及んだこの事件は「辛未の藩難」「藩難事件」「大楽事件」などと呼ばれ久留米藩にとって大変大きな出来事となった。 藩難事件の本質は、古松簡二、小河真文を中心とした久留米藩士の全国的な反政府運動への関与であるが、国や郷土を想い、新時代の建設にかけた志に敵味方の区別はなく、後世名誉は回復され 碑が建立され、忠義を表彰された。

水野正名先生碑

建立:昭和8年(1933)
 碑文は「徳川幕府の末、国政について種々の論義が対立し、ある者は勤王、ある者は佐幕を唱え、諸藩は去就に迷って藩論がなかなか一定しなかった。 これというのも、幕府政治が長く続いたためにこれとの情実・利害関係が深くなり、強大な雄藩でも一挙に関係を絶つことができず、ついに機会を逃して 後世に悔を残したものも少なくなかった。」と始まる。
 文正6年(1823)、水野文三郎正芳の二男として出生。生まれつき聡明で早くから勤王の志が強かった。
 天保14年(1843)、武家の礼式を管理する奏者番となり、真木和泉守、木村重任、二人の弟(吉田丹波博文・稲次因幡正訓)らと共に尊王攘夷派として藩政改革を呼びかけた。
 このとき藩政の主流は佐幕派(公武合体派)だったため、嘉永5年(1852)、弾圧を受け失脚し永蟄居の処分となりその後12年間幽閉された。弟の稲次因幡正訓は自刃した。(「嘉永の大獄」)
 文久3年(1863)幽閉を解かれ、京都、長州、大宰府、再び京都と移り、その間七卿に仕え、尊王攘夷派との連絡を続けた。
 明治元年(1868)藩主の要望によりついに藩政に復帰。奏者版、中老と進み、尊王攘夷派政権を実現し、かつて嘉永の大獄を行った佐幕開明派を一掃した。
 明治2年(1869)、大参事となり、いよいよ藩知事(元藩主)の信任も厚く、藩内の声望も高まり、改革を進めたが、明治4年(1871)反政府運動の首魁で山口藩元奇兵隊の大楽源太郎を藩士を匿う事件が起こり、 東京の藩知事頼咸公にまで取調べが及んだ。藩政の最高指導者だった水野正名は責任を問われ終身刑に処された。
 明治5年(1872)青森県弘前獄中にて病没。享年50才。後年大赦により罪名が消滅し、その名誉は回復された。
かつて仕えていた三条実美より政府への任官を幾度も打診されたが、藩政改革を優先させるため辞退していた。もし仮に中央政府への参画が実現していたならば、国政に偉大な功績を挙げただろうと想像させる大人物だった。

龍捜索第五十六連隊慰霊碑

建立:昭和51年(1976)
捜索第五十六連隊は、昭和十六年、日本帝国陸軍第五十六師団新設に伴い編成された装甲車による機動部隊。
昭和十七年三月、師団は大東亜戦争緒戦となる南方作戦の「ビルマ侵攻作戦」を担うこととなり、 五十六連隊は師団の先頭部隊としてラングーンに上陸し北上した。
五十五師団とともに重慶軍を退けトング―を占領、ここから数十回以上の戦闘を交えながら東北の中国国境に近いミイトキーナまで約千四百キロを一月程で走破した。 連隊は常に師団の先陣を切って進路を開拓し、作戦遂行に大きく貢献した。昭和二十年にはいよいよ戦況が苦しくなったが師団の退却を助けるため奮戦した。 激戦の末、武勲を立て悠久の大義に生きて散った同士は連隊の過半数に及んだ。 九死に一生を得た帰国者は、亡き戦友と戦後物故者の御霊を平和への礎として、 この篠山城址に碑を建て連隊の青史を永遠に記し留めることにした。 (大意)  

石人首級碑

建立:昭和22年(1889)
久留米の国学者・矢野一貞が収集した岩戸山古墳の石人の頭部を篠山神社に寄附し、安置されたことを記念して建てられた。 「大皇軍来都々誅免之堅之石乃曾能人形乃醜首得多里おおみいくさきつつあやめしこごしいわのそのひとかたのしこくびえたり   」という和歌が記されている。石人首級そのものは現在有馬記念館に保存されている。

津田一伝流遂退先生之碑

建立:明治36年(1903)
文政4年(1821)生。父は一伝流の師範役津田伝。二十歳頃すでにその奥義に達し、京・江戸にて剣を深め、剣について独自の信念を持つに至り 徳川家の師範役も一目を置いた。江戸藩邸にいた藩主はこれを聞き、一左衛門に独自の剣論に基づく一派を開かせ「津田一伝流」と称した。 この流名は広く世に知られ門人多く、藩中では「御流儀」と称し、朝晩数百名が教えを受け、藩外から来り学ぶ門弟が常に七~八十名いた。 晩年、休息のため設けた一亭を「遂退」と呼び、自らの号とした。明治5年(1872)5月27日没(享年52歳)。 明治36年10月、高弟達は、先生の名の不朽を伝えるため当碑を建立し、碑文を女婿の内藤新吾が撰した。

津田一伝流第二世碑

建立:明治44年(1911)
遂退先生の長男、津田教修は津田一伝流二代目師範。兵装が重火器中心に置き換わる中、剣術の要を訴え続け、陸軍剣術教範作成に貢献した。 日清・日露戦役に部隊長として従軍し、椅子山・二台子の戦闘では電光石火の早業で敵将を斬って旗を奪い、敵軍の士気を喪失させたという。 両戦役の戦功によって従五位勲四等功四級に叙せられた。

井上先生之記念碑

建立:明治26年(1893)
 井上弥左衛門(昭算)は文化8年(1811)2月生まれ。井上家は代々、藩の剣術師範であったが、弥左衛門は特に才覚に優れていた。
 多事多難の幕末動乱期には藩主頼咸公の上京に供頭として付き添い、第二次長州征討、戊辰戦争に出兵しては見事に任務を遂行した。
 心広く情豊かな人徳は、広く四方に聞こえ、九州にとどまらず四国中国地方から入門者が集まり門弟は数百人にも上った。 やがて日本一の槍術家と称されたのは武技に優れただけでなく、内に義勇の徳をそなえていたからこそであった。

来城先生詩碑

建立:昭和14年(1939)
詩:浮生、水の如く逝く、我まさに死すべし。一事関心す、時俗の非となるを。寄語す、文章同調の友。 大雅を扶持して相違うことなかれ。

来歴:明治4年、久留米裏町(荘島松ヶ枝町)生まれ。幼少から天賦の文才に優れ、生涯を通じて詩文の研究に学識の全てを注いだ。
 台湾、中国を歴訪し、政治ジャーナリストとして論壇でも活躍したが、本領は詩にあった。
 後年、郷里に帰り塾を開き、文学・漢詩を指導した。多くの門弟が集まり文学の道が大いに復興し、文壇の大家と称された。
 昭和8年死去。その後門弟により『来城詩鈔』4巻が刊行された。

井上鶴代碑

建立:
 天保3年(1832)荘島生まれ。父は井上鴨脚。母近子の影響により幼年より歌に親しみ、9才で作歌したと言われる。
 のちに矢野一貞、曳船鉄門に師事して国学・和歌を学び、女流歌人としての令名が高かった。  性、酒を好み、微酔、筆を下せば百吟たちどころになる、と言われた。明治35年(1902)没。
 碑文は親交のあった剣客、海上胤平による。

大伴部博麻之碑

建立:明治25年(1892)
 大伴部博麻は上妻郡(現・八女郡)に出生。 663年「白村江の戦い」に出兵、唐軍に捕らえられ捕虜となる。 唐の情報を日本に伝えるため、仲間4人を日本に帰し自らは身を売って奴隷となり、 異国の地に約30年間居残って帰国した。 その愛国心を讃えて、持統天皇より従七位下の位と米・布・水田などの褒賞が贈られた。 篠山神社祠官武田 巌雄の建立。

道君首名之碑

建立:明治25年(1892)
道君首名は孝元天皇玄孫。文武天皇四年より、刑部親王・藤原不比等らと共に律令を撰定。 和銅五年遣新羅使となり新羅へ渡る。和銅六年八月帰朝後、史料上確認できる最初の筑後守に任ぜられ、 肥後国も兼ね治めた。治政六ヶ年、民の生業や耕種に心を配り、灌漑用水池を築造し、農耕・採果・畜産を定め、 教え導いた。教導に従わない者を厳しく罰したため、恨み罵る民もいたが、 収穫が豊かになると、国中すべてが悦服した。 養老二年に齢五十六で没した後も、首名を景仰する人々によって、大善寺町の夜明神社(印鑰神社)に祀られ、 三潴・八女・山門地方では長く「きんとん祭り」が行われていた。夜明神社境内の乙名塚は彼の墓と伝えられている。

菊歩兵第五十六連隊碑

建立:昭和40年(1965)5月
 菊歩兵第五十六連隊戦没者慰霊祭:5月6日

 歩兵第56連隊は明治38年に創設、大正3年、青島攻略戦には輝かしき武勲を立てたが、軍備縮小により大正14年軍旗は宮中に安置された。
 昭和12年、日華事変勃発するや、第18師団の主幹部隊として再編成、同年9月16日、杭州湾に敵前上陸、勇名をとどろかせ、爾来中南支に転戦し、菊兵団と呼称された。
 昭和16年12月8日、大東亜戦争の宣戦布告と同時にマレー半島コタバル飛行場正面に激烈悲壮な上陸作戦を敢行。疾風怒濤の如くマレー半島を席巻し、 昭和17年2月15日、難攻不落を豪語したシンガポールを攻略した。さらに時をうつさず、ビルマの戦野に駒を進め、援蒋ルートを封鎖、 中印両国よりの連合軍の大陸反攻に大使、悪戦苦闘すること4年有余、昭和20年8月15日の終戦の詔勅により、 ビルマ国シッタン河畔にて終戦を迎えた。
 この間、将兵は軍律厳しい中にも礼儀あり、情誼に厚く、その奮戦ぶりは蒋介石総統、チャーチル英首相、スチューエルビルマ連合軍司令官をして 世界最強の部隊なりと激賞せしめた。
 この栄誉は遠く異国の地に悠久の大義に生きて散華した多くの戦友によって得られたものである。

聖徳太子像

建立:
 聖徳太子は、橘豊日皇子(用明天皇)の第二皇子として、敏達天皇三年(五七四)に誕生。蘇我馬子と共に 摂政として推古天皇を輔け、冠位十二階・十七条憲法の制定、四天王寺・法隆寺等の寺院建立、 多数の仏法書、史書の編纂、遣隋使派遣など内政・外交にわたり広く功績を残した。
 推古天皇三十年(六二二)没。数々の伝説とともに聖人として全国で信仰され、久留米でも「全日本聖徳会」会長・江藤法輪氏が、 津福本町の聖徳太子を祀る祠があった場所(現在の市立聖徳保育園)を拠点に顕彰活動を行っていた。 この像は、江藤氏が昭和三十六年(一九六一)に久留米を離れるにあたり、当時の宮司山田勇作と 懇意にしていたことから、篠山神社に寄贈したものである。

画聖青木繁碑

建立:昭和43年(1968)
久留米を代表する近代洋画家青木繁のレリーフ。代表作に「よもつひらさか」「海の幸」「わだつみのいろこの宮」などがある。 明治浪漫派の鬼才と呼ばれた。明治44年(1911)死去。享年29