御由緒記

幕末期の久留米

 江戸時代末期から明治初期の近代黎明期は、久留米にとっても動乱の時代でした。
 久留米藩10代藩主有馬頼永よりとうが活躍した天保てんぽう(1831-45)の頃は、国内経済の構造変化国外勢力の拡張の脅威から、全国的に行財政改革が盛んとなった幕藩体制の動揺期でした。頼永公は稀有の才能により時勢にかなった藩政改革を推進し、名君として藩民の期待を背負いましたが、若くして世を去ります。

 跡を継いだ最後の藩主有馬頼咸よりしげの治世は、帝国主義列強の軍事力を前に、幕府統治の信任をめぐって国論を二分する争いが全国的に激しくなる中、藩内も大いに乱れ、西南雄藩に囲まれた立地も影響し、藩運営は困難を極めました。
 

士族反乱の端緒となった大事件

 時代は大政奉還を迎え江戸から明治へと移りますが、三百年余り続いた秩序の変更に抵抗する士族も多く、各地で反乱が相次ぎます。その端緒というべき事件が久留米で起こりました。辛未しんび藩難はんなん(通称「藩難事件」)と言われています。
 

背景①―天保学連の成立

 この出来事の背景には、複雑な経過を辿った幕末の政情があります。

 水戸藩に興り、幕末の思想運動の中核を担った水戸学みとがくは、天保期に、「天保学」として全国に広まりました。
 頼永よりとう公治下の久留米藩からも村上量弘(守太郎)、木村三郎、真木保臣といった藩士が水戸に遊学して学風を持ち帰り、これを有能な人士が競って学んだため、彼らの 天保学連 ( てんぽうがくれん ) は藩内の一大勢力に育ちます。

天保学の三尊
木村三郎村上量弘(守太郎)真木保臣
幕末の久留米藩政は、この天保学連という思想グループを中心に改革が進められていくはずでした。

 

背景②―分裂と対立

 藩の中枢で政務を執ることになった村上守太郎は当初、藩政に水戸学の思想を取り入れることを学連の同士から期待されていました。しかし、村上は水戸学を在野の学問と捉え、現実の政治に採用することに慎重であったため、真木保臣らの不満を招きます。

 三尊と仰がれ水戸学の泰斗たいととして学徒を率いていた2人の不和により、天保学連は

佐幕開国派
(公武合体派)
藩政執行部「内」に籍を置く「内同志」村上守太郎野崎平八
今井栄
不破孫市ふわまごいち
不破美作みまさか
有馬監物けんもつ)(河内)
尊王攘夷派藩政「外」にあって改革を説く「外同志」真木保臣木村三郎(重任おもとう)
水野丹後(正名まさな)
稲次因幡正訓
小河真文まさぶみ

の二派に分裂してしまいます。さらに、病を抱えていた頼永公の後嗣候補を巡る思惑で対立は決定的になり、以後二派は同志を一人二人と失いながら熾烈な勢力争いへ進みます。

刃傷事件


 弘化4年(1847)より参政として江戸藩邸にいた村上は、嘉永3年(1850)、邸内で突然、参政馬淵貢まぶちみつぐを刃傷する沙汰に及び、その場で家老有馬飛騨、有馬主膳らに殺害されました。頼永公亡き後の藩の窮乏を憂い、馬淵を原因と恨んで事に及んだと推測されています。

嘉永の大獄かえいのたいごく


 翌嘉永5年(1852)3月に、外同志は藩政改革の上申書を出します。しかし執政層に阻まれ、真木保臣・木村三郎・水野正名・稲次因幡正訓の4名は無期禁固、他の外同志も全て処罰されました(嘉永の大獄)。これによって稲次因幡は翌年自刃、真木、木村、水野はその後約12年間幽囚の身となりました。

不破美作暗殺事件


 慶応4年(1868)、小河真文ら24名が親幕派排除を目的に参政不破美作を暗殺します。さらに藩政幹部の刷新を行い、今井栄・有馬監物らに代わり水野正名が藩政に入り、奇兵隊を参考に応変隊おうへんたいが組織され、新政府を支持する尊王攘夷派の体制ができました。そして、水野体制の久留米藩に少参事として木村三郎が入りました。  

背景③―明治維新と新政府の方針転換

 帝国主義列強との摩擦を起点にした攘夷運動が、開国路線をとる江戸幕府を倒し、新しい中央集権国家を樹立するのが明治維新の大まかな流れでした。
 しかし、外圧への拒絶反応としての素朴な観念的「攘夷論」は、下関戦争の敗北、薩英戦争での甚大な被害などを経て、しだいに外国との交易を経て国内を富ませ、列強に伍する力を付けたうえで不平等条約改正を目指す現実的な「大攘夷論」へ育ち、後者で成立した新政府の外交方針は、結果として、旧政府(江戸幕府)の方針と同じ「開国和親」路線となりました。

攘夷論観念的鎖国し夷狄を直ちに打ち払う倒幕、新政府樹立の大義
大攘夷論現実的開国し交易で国力を蓄える結果として旧政府(幕府)と同じ

 これに攘夷の実現を信じ、尊王攘夷運動を支持してきた人々は怒ります。また改革が急速であったことや維新に命を賭けて貢献し、功績が大きかったにもかかわらず論功行賞が十分行われなかった者が多数いたことなどから、各地で新政府への不平不満が高まっていきました。

 新政権の山口藩では、明治2年(1869)、奇兵隊を含む諸隊解散という大胆な兵制改革を断行した所、兵数千がこれを不服として藩庁(山口城)を取り囲み暴動となりました。
 数年前に長州征伐の際幕府軍と戦い、長州藩の改革派勤王志士として影響力を持っていた大楽源太郎だいらくげんたろうは、この事件に私塾「敬神堂」の門下生が多く関わっており、指導者と疑われたため、追及を逃れて藩を脱出しました。  

辛未しんび藩難はんなん(藩難事件)の顛末

 九州へ逃れた大楽源太郎は、古松簡二を頼って久留米藩領に潜入し、小河真文に匿われました。新政府の方針転換・広範にわたる急速な制度改革に直面するうち、新政府寄りだった藩内に反発の気運が高まり、明治3年(1870)には、古川、小河を盟主として、応変隊と新たに組織された七生隊による反政府活動が行われました。大楽を幹部に据えた応変隊は過激化し、創立・編成に関わった水野正名ですら制止できないほどになっていました。

 明治4年(1871)、小河・大楽らの政府転覆の密議があり、策謀を進めていたところ、山口藩に露見し、久留米藩は大楽の返還引き渡しを要求されました。大楽は頼咸公とも会ったことがあり、久留米との関係を秘する必要があったため、藩士島田荘太郎らは止むを得ず大楽を殺害し遺体を隠しました。
山口藩から報告を受けた政府は反乱鎮圧のため久留米に軍を派遣し、首謀者多数を捕縛・処罰しました。この時藩知事であった頼咸公にも謹慎が命じられました。
 大楽の来久を機に政府軍の出動にまで及んだこの一連の出来事が藩難事件です。
   

来るべき時代への展望と祈り

 旧久留米藩は、攘夷を支持する勢力が優勢となったことで、新政府の嫌疑が強まり、討伐を受けるに至ったと言えます。
 しかし攘夷論が外国に対する情緒的な反応であり、短慮であったと評価してしまうのは早計です。当時、不平等な開国、通商によって国内経済は悪影響を受け、庶民は実際に窮乏していました。現代の俯瞰できる立場で見れば、開明派をひいきしてしまいがちですが、当時からすると国外の未知の存在によって暮らしが脅かされている事実を見過ごせない人々の、攘夷論への傾倒も理解できます。両派とも共通に国と民の行く末を憂い、未来を創るために最善と思われる主張を貫きました。この戦いによって失われた命は、派を問わず新たな時代を切り開く礎となったということでしょう。

   南側正面から境内へ上がると左側には、全高9メートルに及ぶ「西海忠志さいかいちゅうし」の巨碑が見えてきます。碑は明治二十五年に藩難事件の犠牲者への追悼と、名誉の回復を図って作られました。初代久留米市長を務めた内藤新吾氏の撰による碑文には概ね次のことが記されています。

 「明治維新の際、王事に尽くし国のために死んだ筑後の人物は、真木和泉・水野正名のような古い活動家をはじめ小河真文・古松簡二など数えれば数十名をくだらない。
 これらの履歴については伝記に詳しく述べられており、ある者は刃の下に生命を落とし、あるいは囚われの身となって獄死するなど、それぞれ境遇・行動は違っていても、家や身を顧みないで一途に国家へ奉仕した忠誠心において変わりなかった。だからこそ、一時は政論の相違から明治政府に対抗して罪を得た者も、今では大赦の恩典に浴し、その中でも特別に国家に功績のあった者は祭祀料を下賜され、贈位の栄誉を受けている。…」

   藩難事件の後、久留米城は廃城となり建物は破却され、陸軍省管轄となりました。政府は民間払い下げを行い、日田の豪商が買い取って石垣の巨石を運び出すところまで計画されていましたが、実業家の緒方安平氏(実業家・石橋正二郎氏の祖父)が買い受けて阻止し、何とか城跡の形を留めることができました。

 久留米の有志達は、この城跡が再び実益に基づいて利用されてしまうことを避けるために思案し、城郭になる以前から神聖な場所と崇められていた本丸址のこの丘は、神社こそあるべき姿と捉え、明治10年(1877)、二百五十年の藩政の中でもとりわけ名君の声高い初代豊氏公、十代頼永公を御祭神として御霊社を建立しました。二年後の明治12年(1879)、県社に列せられ、その後七代頼徸よりゆき、十一代頼咸よりしげ、十四代頼寧よりやすが祀られ、御祭神は五柱となり現在に至ります。

 篠山神社創建に込められた祈りは、歴史を作ってきた先人達への感謝と、この地の発展と存続を担う私たちを見守っていただきたいという願い、そして復興の誓いだったと思われます。